日本人が英語をしゃべれない本当の理由

日本人は世界でも抜群に英語がへたである。英語だけではなく中国語も苦手だし、外国語全般が苦手である。
 
韓国のアイドルは日本に来てすぐ日本語を覚えてしまうが、あれと同じことをAKBができるとは到底思えない。草薙剛はそれをやったかもしれないが、ジャニーズ全員がそれをやるぐらいの勢いでやっているのが韓流アイドルだ。明らかに彼我の語学力に違いがある。また、中国の学生が大量に日本にやってきてコンビニや飲食店でアルバイトをしているが、あれと同じことが普通の日本人にできるだろうか?とにもかくにも海外へ行って現地で店員が勤まるだろうか?
 
 
英語や中国語は文法が日本語と違い過ぎるから難しいのだとよく言われる。それはもちろんその通りだろうが、それだけで今日の惨状を説明することはできない。なぜなら、文法の違いを乗り越えなければならないのはお互い様なのに、日本人が英語や中国語を覚えるよりもアメリカ人や中国人が日本語を覚える方が遥かに速いからである(少なくとも会話に関しては)。
 
なぜなのか。
 
 
<仮説>
日本人が外国語を話せないのは、日本語の音節当たりの情報量が極めて少なく、その少なさに日本人の脳が慣れてしまっているからである。
 
 
日本語が音節の数が非常に多い言語であることはよく知られている。例えば「私は学校へ行きます」という文を各国語に翻訳すると、音節の数は以下のようになる。
 
I go to school. 「ア・ガ・ル・スクゥ」(4音節)
我去学校。 「ウォ・チュ・シュエ・シァオ」(4音節)
私は学校へ行きます。 「ワ・タ・シ・ワ・ガッ・コォ・エ・イ・キ・マ・ス」(11音節)
 
 
同じ内容を言うにも日本語は他の言語に比べて多くの音節を発音しなければならず、それだけ時間がかかる。言い換えれば、同じ時間に頭の中で処理している情報量は少ない。
 
上記の例では英語話者は4音節という短い時間の間に「私は」「行く」「へ」「学校」という4つの概念を脳内で処理している訳だが、その間に日本語話者の脳内で処理されている情報は「私は」だけである。英語の"I"に相当する単語が4音節もある言語を日本語の他に私は知らない。音節当たりの意味量にこれだけの違いがある以上、日本語話者と英語話者との間に一定時間の間に処理できる言語情報の量に大きな差が生じても不思議ではない。(※)
 
仮に日本語が英語並みに音節当たりの意味量の豊富な言語だったとしよう。私は「ワ」、学校は「ガ」、行くは「イ」という一音節単語で、文法は今の日本語と変わらないものとする。すると上記の例は「ワワガエイ」になる。 短い。 というか速い。今まで2〜3秒かけてしゃべっていた内容を0.5秒くらいで言わなければならない訳で、こんな速さには脳がついていけない。でも、この「ワワガエイ」式に喋るのが英語であり、赤ん坊の頃からワワガエイ式に脳が訓練されているのが英語ネイティブなのである。そりゃ、日本人には喋れないはずである。
 
日本人が英語を喋れないのは考えてみれば当然のことであり、その原因を学習指導要領に求めるとか、ましてや英語教師の資質に求めるというのはモンスタークレイマーもいいところなのである。
 
 
では、どうすればよいのか。その答は今日、多くの英語学習者たちの努力の末に既に出ていると言っていい。
 
文法の違いも音節当たりの意味量の違いも乗り越える為に、英語学習者たちは何をして来たかというと、まずは例文を憶えるのである。
 
たとえば「駅へ行くにはどうすればよいですか?」は
 
"How can I get to the station?"
 
と言ったりするけれど、この文をまるごと憶えてしまう。このとき重要なのは、一つ一つの単語の並びとして憶えるのではなく、一連の発音「ハウケナイゲットゥダステイシュン?」でまるごと憶えてしまうということだ。そして「ダステイシュン」のところだけを場面に応じて他の単語に入れ替えて使う。
 
こうすることで、"how" "can" "I" "get" "to" といった単語たち(全部1音節しかないくせにそれぞれが独立した単語としてちゃんと意味を持っていやがる)はそれぞれの持つ膨大な意味量と語順のルールから解き放たれ、「ハウケナイゲットゥ」というあたかも一つの単語のように日本語脳の中に染み込んでくる。「〜へ行くのはどうすればよいですか?」という一つだけの意味を持って。
 
日本語脳では、"how" "can" "I" "get" "to"といった単語を瞬時に頭の中に浮かべ、それらを適切な順番に並べて話すということは不可能である。だからその代わりに、ハウケナイゲットゥという「5音節の一つの単語」を話すのだ。
 
このようにしてよく使う表現から先に例文を憶え、それらを必要に応じてアレンジしながら喋るという訓練を重ねることで、日本人もようやく英語をなんとか話せるようになっていく。
 
このやり方は、音節当たりの意味量の違いや文法や語順という高いハードルをいきなり飛び越えようとするのではなく、いったんそれらのハードルをすっとばして先にコミュニケーションを取れるようになってしまう戦略だ。そしてある程度跳躍力がついたところでハードルを越えられる人は越えれば良いのである。この戦略なら、素質のある人なら「英語が巧い人」になれるし、素質のない人でも「とりあえずありきたりな会話はこなせる人」になれる。もちろん話せるようになるまでには膨大な時間と労力が必要とされるので生半可にできることではないし、文法の勉強も必要だ。
 
 
日本人が外国語習得を目指す上で直面するハードルは意味量、文法、発音など数多い。それらのハードルを跳ぶ為にまずハードルの高さや材質の分析に始まり分析しただけで終わるのが学校教育の英語であり、むしろあれは英語が話せるようになる為のものではないと考えるべきである(もちろん話せるようになるには文法の理解が必要だから受験英語が無駄だと言いたい訳ではない)。
 
 
 
 
(※)英語の文とそれを日本語に翻訳したものを同時に朗読しても大して時間の長さは変わらないはずだ、だから時間当たりの意味量は変わらない、と反論されるかもしれない。
が、より細かく言えば、文章を読み上げたりニュースなどで原稿を読みながら喋っているのは、あれは自然な日本語ではない。原稿なしでアドリブで日本語を話すとき、時間当たりの意味量は極めて少なくなる。これは外国のドキュメンタリーに日本人が出てきて日本語で証言をする映像を見るとよくわかる。日本人はたくさんのシラブルを発音しているのだが話の内容はとても簡素であり、そのわずかな内容を喋るのに長々と時間がかかっていて、英語の字幕で既に何を言うのか全部わかっているのに話が終わらないので見ている側はイライラするのである。
あるいはリアルな日本語としては、原監督のインタビューを思い浮かべるとわかりやすい。頻繁に「えー」とか「おー」とか空白を挟みがら長々といろんなことを喋っているのだが、実際にはさして内容のあることは言っていない。主語と述語も一致していないし、翻訳が困難である。
多くの単語の羅列によってそれらの単語やフレーズのもつ「感じ」をモザイク画のように醸し出して伝えるのが日本語のコミュニケーションであり、それしかしたことのない日本語話者が文法事項を一から積み上げていって外国語を習得するのは至難の業なのである。

 

なぜ「サッカー部はオシャレで野球部はダサい」のか

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俗にサッカー部やサッカー選手はファッションがオシャレで、野球部や野球選手はダサい、みたいなことが言われる。確かに自分の学生時代を思い起こしても、サッカー部の連中は学校指定の制服やジャージを着こなすにもなんとなくスタイリッシュな奴が多かった気がするし、反対に野球部員にはそういう印象はない。またプロ選手を見ても、サッカー選手にはオシャレだと世間から見なされている人は多く、逆にプロ野球選手でそういう人は少ない(野球選手のファッションがイケてない、という話はネットの野球ファンの間でも定番ネタだったりする)。さらに言えば、「趣味はサッカー(フットサル)です」と言われたらその人はちょっとオシャレっぽい人なのかなと想像するし、「趣味は野球です」と言われて、草野球に興じている人たちの私服がかっこいい、という想像は湧きにくい。
 
そのようなイメージは世間一般で割と共有されていると思うし、実際に人々が目にして受けた印象が積み重なってそうしたイメージができあがっているのだとしたら、本当にサッカーをする人たちのほうが野球をする人たちよりもファッションセンスに優れている可能性が高いと考えるべきではないか。
 
 
では、なぜなのか。
 
 
<仮説> 
サッカーという競技がプレイヤーに、ファンッションセンスと密接に関係する画像認識能力や空間把握能力を要請しているから
 
 
異なるスポーツを愛好する複数の人間集団の間に何らかの差異が認められるとしたら、それは各々の競技の異なる性質が、競技にとって必要な能力をもった人間を「選択している」からかもしれない。いわば「サッカー部員」というのは、「サッカーというフィルターを通した人間集団」とも言える訳だ。
 
では、サッカーという競技が選手に求める能力とは何か。そもそもサッカーとは、何を目指す競技か。思うにそれは、「空間(スペース)を支配すること」ではないか。あの手この手で敵の守備陣形の中に「スペース」を作ってはそこに走り込み、味方選手がフリーになったところにパスを出す。あるいは自陣にスペースが生まれていることを察知してそれを埋める。そうした争いこそがサッカーの要点ではないだろうか。そしてそれは子供の草サッカーでさえ例外ではないはずだ。サッカーができない子供というのは、ボールを蹴れないのではなく、ボールをどこに蹴ったらいいかを瞬時に判断するということができない。だからボールをもらってもオロオロするばかりでボールを失ってしまうのである。
 
つまりサッカーの競技者というものは、自分の視点から見た風景を一瞬で頭の中で画像解析し、「あすこにスペースがあるな」「あすこで味方の選手がフリーになってるな」「ここからふわりとボールを浮かせてあの辺に落とせばパスが通るな」といった具合に、視覚情報を有用な形で(ときに立体的に)解析する能力に優れていなければ勤まらないのである。逆に言えば、そういう能力に恵まれない子供は、サッカーをやってもなかなかうまくできないので面白くなく、長続きしない。
 
結果としてサッカー部員はそうした画像認識能力や空間把握能力に比較的優れた人の集まりになる。当然のことながら、ファッションセンスというのは要するに自分の体型のシルエットを奇麗に見せる為にどんな服をどう着ればいいかが頭の中で想像できる人のことである。服の柄も生地の質感も色使いも、結局のところ最終的に見せたいシルエットを構成する要素であるだけだ。どんなブランドの服を着るかとか、流行に敏感だとかいうことはファッションセンスとは関係ない。それこそ制服や体操着やジャージを着ていても、オシャレな人とそうでない人は露骨にわかってしまうものだ。なぜならシルエットをバランスよく見せることができるからだ。
センスのない人は、はなはだしい場合には、入れてはいけないときにシャツをズボンにインしてしまう。それをやったら全体のバランスが悪く見えるということが本人には見えていない。一方画像認識能力に優れた人にはそれが見えている。
 
野球選手についてだが、野球の場合はそのような能力は特に求められていないので、おそらくそうした能力は一般の平均と変わりはないはずである。どちらかというと「野球選手がダサい」というよりは「ふつうの日本人男性のセンスはせいぜいあれぐらい」という理解の方が正しいのではないか。
 
 
仮にこの仮説が正しければ、サッカーと似た性質を持つ競技の選手もファッションセンスに優れていなければならない。その筆頭は、やはりバスケットボールであろう。どこで味方がフリーになっているか、どこに敵のユニフォームを着た選手がいるかがが瞬時に把握できなければあのスポーツは楽しめないのである。では、バスケ部員と野球部員(この際何の部でもいいのだが)では、どちらがオシャレなイメージがあるだろうか・・・?
 
あるいは、学生に数学の問題を解かせる。サッカー部員と野球部員とで点数に有意な差は認められないだろう。だが、「一人一人の全得点に占める幾何の得点の割合」を調べたら・・・?あるいは、サッカー部は代数よりも少しだけ幾何が得意かもしれない。